アルジー&バート
本日の更新はアルジー&バートの「アンバランスor」長いので分割されています。
また量が多いせいか、文字が小さくなっています。エンコードの文字の大きさで、お好みにあわせて調整していただけたらと思います。
本日の更新はアルジー&バートの「アンバランスor」長いので分割されています。
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番外短編インデックス(過去にサイトにアップしたものの再録)
帝都・闇烏の事件簿
頼久の思い出
「帝都・闇烏の事件簿」三巻の書き下ろし番外「猫は食わねど 密偵稼業」にて、頁数などの関係で削除した思い出話です。未公開シーン風にぶちっと始まり、ぶちっと終わります^^;
きみは天使ではなく。(ボーイズラブ)
ベッドの下のお化け (この番外編はボーイズラブにはなっておらず、ちびトマス(五歳)と少年ギルフォードとの微笑ましいエピソード。アーヴィンは出ていません)
背中合わせのくちづけ(ボーイズラブ)
~優しい休息~(アロン&ショーン。文庫書き下ろし短編絡みのエピソード)
スウィート・リベンジ(ボーイズラブ)
ショートストーリーめも( 一昨年くらいに書きかけてとまっているショートストーリーのなかから抜粋。いずれ仕上げたいです。アルジー&バート:リベ三巻の翌年くらいのお話)
VERY MERRY KISS (アルジーとバートのクリスマスのエピソード)
アンバランスor (アルジーとパートのビターほのらぶストーリー・「シャーロキアン・クロニクル」のふたりがゲスト出演) プロローグ 1 2 3 エピローグ
| エピローグ | ||
| 「薬は飲まない」 そう言って、僕はベッドにもぐりこんだ。夕食にスープとオートミールを食べたあと、痛み止めの薬を飲めと、アルジーが言うのだ。 抜歯のあとの痛みはひどくて、ろくに食事もできないくらいだったけど、僕は我慢するつもりだった。 「絶対に飲まない」 「頑固だね」 アルジーはため息をついた。 そして僕の顔をのぞきこむ。 「まだ少し腫れているみたいだね」 「明日には治るから――」 放っておいてほしい、と言おうとした。本当は喋るのだって辛いのだ。 それなのにわずかに開けた口のなかに、アルジーが指を滑り込ませてきた。そして別の手でもっていたグラスのなかの液体をを自分の口に含むと、指を抜く。舌の上に何かのっているのがわかったけど、吐き出す間もなく、アルジーはくちづけするようにくちびるをふさいだ。口移しで水を注ぎ込まれて、そのまま飲みくだしてしまう。 「薬――?」 「さあ、どうかな」 「アルジー!」 抗議の声をあげたけど、アルジーは相手にしない。 「いいから。おやすみ」 そう言って、僕の肩を毛布でつつみこむようにした。 痛み止めは麻薬のようなものだから、飲みたくないのに。我慢するつもりだったのに―― 腹が立ったけど、痛みはやんわりとひいていった。そのままうとうとしていると、アルジーがベッドにもぐりこんできた。 僕と目があうと微笑みかけ、額に接吻した。ランプの光を小さくする。 「おやすみ、バート」 そして目を瞑ってしまう。 僕は暫くその顔を睨みつけていたけど、薬の効果かすぐにまた眠くなってくる。それでもまだ少し痛みはあったし、アルジーに対する腹立ちも消えなかったから、彼に背中を向けて眠ろうとした。だけと―― アルジーに背中を向けると、痛い方の頬を下にすることになるのだ。三十秒ほどは我慢していたけど、結局痛みに負けてまた体の向きを変えた。 目を閉じたまま。 アルジーとはできるだけ離れて。 そうして浅い眠りに誘われていくなか、僕は考えていた。 時折――今回みたいに、僕が本当に困っているときには、優しい瞳で見つめて、手を差し伸べてくれるアルジーのことを。 普段はとても意地悪いくせに、こんなときだけ、優しくされる。 まるで小さな子を甘やかすみたいだ。 ああ、そうか。 クリスティナに。 本当はあんなふうに、クリスティナに優しくして、微笑みかけていたいんだ。だけどクリスティナは、アルジーを拒んでいる。 だから、アルジーは、僕に親切にする。ときどき。気まぐれに。 僕にくれるのは、本当じゃない優しさなのだ。 だから、優しくされても、気にしなければいい。何も考えずに、おいしいところだけ貰ってしまえばいい。本物でない優しさなら、利用しても平気なはずだ。 「アルジー」 小さく呼んでみた。 応えはない。 ひょっとしたら眠っているふりをしているのかもしれない―― そう思ったけど、僕は確かめなかった。 もしも本当に眠っているのならば、彼が目を醒まさないように。 目を瞑ったまま、そっと彼に身をよせた。 痛みと、そしてたぶん痛みのせいで不安なのを紛らわせるために、彼の温もりを利用する。 それできっと。 僕とアルジーとの心は釣り合いがとれているはずだから。 end |
歯医者の予約からは逃げ出せたけど、なんだかますます憂鬱になった。
ジェムとの約束があるから歯医者には行けないと告げたときに、僕を見つめたアルジーの眼差しのせいだ。
なんだか傷ついたみたいな目で、それはもちろん気のせいかもしれないのだけど――
アルジーが歯医者に予約をしてくれたのは、意地悪ではなくて、少しは心配してくれたからなのだ。アルジーの好意を踏みつけにしているのだと思うと、少しばかり自己嫌悪に陥いる。アルジーの視線が痛かったのも、そのせいかもしれない
だけど勝手に予約してしまったのはアルジーだ。先約があったのは仕方のないことだし、だから――
ぐるぐると考えながら、僕はサマセット・ハウスに向かい、そこで頼まれていた遺言書の内容についての調べ物をした。
それからメイスン社に向かった。
ジェムはなにやら忙しそうだったが、僕の顔を見ると、破顔一笑、「助かった!」と叫んだ。
「え?」
「おまえと約束していたんだよな、ホームズ氏のところに行くの」
「う、うん」
「実は前から担当しているイースト・ボウのマッチ工場の件で、厄介な事態が発生したんだ。急いで行かなくちゃいけない。ホームズ氏の方は、頼んでいた事件の書類を受け取るだけなんだが、行ってきてくれないか?」
「……うん、わかった」
「事情を説明した手紙は書いたんだが――」
ことの次第を早口に説明しながら、慌しく外出の支度をするジェムから、手紙を受け取る。
「じゃあ、頼む」
「……うん、気をつけて……」
口を開いたところで、奥歯に痛みが走って、声がかすれた。
ジェムはそのまま出て行こうとしたが、戸口で立ち止まって、ふりかえった。そして僕のもとに戻ってきて、まじまじと顔を見る。
「バート、おまえ、具合が悪いのか?」
「え――」
「顔色が悪いし……」
「べつにたいしたことない。ちょっと歯痛で……」
「奥歯か? 少し腫れてるな」
ジェムは僕の顔を覗き込むようにした。手が頬に触れる。
どきり、と心臓が跳ね上がった。顔が真っ赤になるのがわかった。急いで身を引き、そしてうつむく。
「でもたいして痛みはないから」
「だが――」
「アルジーの紹介で、歯医者も予約してるから……」
嘘ではないけど。だけど少し嘘っぽい。いや――これから嘘になるだろう約束だ。だって、僕はこの予約をすっぽかすことにしているんだから。
なんだか罪悪感ばかり増えていく。
僕はこっそりため息をついた。
それから、僕はひとりでベーカー・ストリートの探偵を訪ねた。
約束の時間に、呼び鈴を鳴らすと、出迎えてくれたのは、人当たりのよい中年の女のひとだった。下宿のおかみさんという感じだ。
そして二階に案内された。
メイスン社の探偵さんですよ、と取り次いで、そのひとは階下におりていった。
どうぞ、と部屋のなかから、入室を許可する声がして、僕はそっと扉を開けた。
部屋は広々としていて、事務所というよりもごくありふれた居間のようだった。でもありふれた居間には、化学の実験道具の並んだ机はないかもしれない。
書き物机がふたつあって、部屋にはふたりのひとがいた。ひとりは後姿しか見えなかった。机に向き合って、一心にタイプを打っている。明るいめの金髪、大柄なわけではないけど、よく鍛えられたふうな体つきで姿勢がよくて、事務的な作業は少し窮屈そうにも見える。
そして痩せ型の黒髪の紳士が、暖炉のそばの肱掛椅子に深くかけていた。彼はしきりに煙草をふかし、なにやら考えごとをしている様子だった。
どちらに声をかけるべきかと困惑して、小さく息を吸い込んだとき、黒髪の紳士が僅かに顔をあげ、灰色の瞳で鋭くこちらを一瞥した。
僕は慌てて口を開いた。
「あの、グレイ氏が急な所用でこちらにお伺いできなくなったので――」
「イースト・ボウの一件では、忠告をしておいたのだが」
「え」
僕はまたたいて、黒髪のひとを見つめた。彼はふたたび考えに沈んでしまったようで、もう僕の方は見ていなかったけど、とにかく僕は会話を持続させようとした。
「え、ええ。そうです。イースト・ボウの工場長さんが暴漢に襲われて――幸い命に別状はなかったみたいです。ジェム……いえグレイ氏は、部下をこっそり張り込ませていたので――」
黒髪の紳士は小さく肩をすくめた。
「グレイ氏はよくやったと評価すべきだろう。責められるべきなのは、グレイ氏の忠告を受け入れなかった工場長だな」
独り言のように言う、そのひとに、僕はどう言葉を返したらよいのかわからなかった。
とりあえず、ジェムから預かった手紙を急いで取り出して、前に一歩踏み出そうとした。
と、鋭い声がとんだ。
「足元に注意を」
はっとして足元を見た。
そして目を丸くした。僕が足を踏み出そうとしたところから、そのひとがかけている肱掛椅子まで、床一面にタイプ打ちしした書類が敷きつめられているのだ。
「あ、あの?」
困惑し、これはいったい何を、と尋ねようとしたけど、黒髪の紳士が煩げに片手をあげたので、口に出せなかった。
そして彼は、愛想のかけらもない声で言った。
「あなたの歩く道は開けてあるから、どうぞ。ミスター・ホーキンズ。そこの椅子にかけて――」
「……え。あ、はい」
「じきワトスン氏が書類を仕上げてくれるはずです」
すると、やはりこの紳士がホームズ氏なのだ。
僕は散らばった書類の間を進み、長椅子に腰をおろした。それきりホームズ氏は喋らず、聞こえて来るのは、タイプをせわしく打つ音だけ。
ワトスン氏は、何だかもの凄い勢いでタイプを打っている。
その背中は、怒りを放出しているような気もする。
僕の気のせいだろうか。
だけどなんだか、部屋の空気もぴりぴりしている。つい今しがたまで喧嘩でもしていたんじゃないかと疑ってしまうような、そんな険悪な雰囲気だ。
だがホームズ氏の愛想が悪いのは、いつものことらしいから、あまり気にしない方が良いのかもしれない。
それから――
変わり者、っていう噂も、確かにその通りかもしれない。
なんとも居心地の悪い沈黙のなか、僕は時折時計に目をやり、そっとため息をついた。
アルジーは今ごろ、予約してくれた歯医者に事情を説明しているのだろうか。電報で知らせるくらいだろうか。気まずくなったりしていないといいと思う。
十五分ほど経ち、タイプの音が止まった。
ワトスン氏は小さくため息をつき、タイプした書類をまとめて、マニラ紙の封筒にいれた。そして立ち上がり、床の上の書類に不機嫌な視線を向けた。
だが僕の方を向いたときには、少々疲れたふうではあるものの、無愛想ではなく、誠意ある声音で書類の出来上がりが遅くなってしまったことを謝罪した。
「待たせてしまって、申し訳ない――」
「ホーキンズです。グレイ氏の代理できました」
「よろしく。ミスター・ホーキンズ。ワトスンです」
僕はジェムから預かった手紙を渡し、書類を受け取った。ざっと中身を確認していると、ワトスン氏が言った。
「具合が悪そうだが、大丈夫ですか?」
「え……」
無意識のうちに、頬に手を当てて、眉間に皺を寄せていた。慌てて首を横に振った。
「あ。ただの親不知です」
「親不知? ああ。なるほど、腫れているみたいだな……、それに熱が出てるんじゃ――」
「熱――?」
そんなことはない、と否定したけど、言われてみたら、歯だけではなく、頭も痛いし、さっきから少し寒気もしていた。
「そんなふうだと、抜いた方がいいかもしれないな」
「……でも……その……もう少し様子をみてもいいかと思っているんですけど」
確認した書類を封筒にしまいながら、僕はぼそぼそと言った。
「だがその様子だと、早く診てもらった方がよさそうだな。なんなら、ここで俺が診ようか? 抜歯もしたことがあるから、ここで抜いてもいいが」
ワトスン氏の申し出に、僕はぎょっとして、顔をあげた。
本気なのか、冗談なのか。ワトスン氏は真面目な顔をしている。
恐る恐る尋ねてみた。
「あの、歯医者さん、だったんですか?」
「いや。だが軍医として、戦地で抜いてやったことがある。――あのときは大変だった。麻酔なんかないから、酒を飲ませて酔い潰したところを、ふたりがかりでペンチで抜いたんだ。抜いたときは痛がっていたが、二、三日安静にしていたら――」
「あ、あのっ」
僕は書類を抱きかかえて立ち上がり、僅かに後ずさりしながら、失礼にならないように辞退する。
「歯医者に予約してもらっているので――、大丈夫です」
「そうか」
ワトスン氏は残念そうに引き下がったが、すぐに噴き出しそうな顔になった。そして幾らかあったかで、くだけた口調で言った。
「まあ、ロンドンにはちゃんとした歯医者がいくらでもあるからな。早い目にみてもらった方がいいだろうな」
ひょっとして僕の歯を抜こうかと言い出したのは、僕が歯医者を嫌がっているのを察して、わざと脅したのだろうか。
つまりからかわれたのだろうか。
少しばかりむっとした。
そこにホームズ氏の声が割り込んだ。
「次は予約時間に仕事をいれたりしないようにするんだね」
どきりとして、ふりかえった。
でもホームズ氏は、こちらを見てもいない。しきりに煙草をふかし、半ば目を伏せて考えに沈んでいる様子だ。
ワトスン氏は小さく肩をすくめ、気にしなくてもいい、と目配せを寄越した。そして戸口まで見送ってくれた。
「グレイ氏によろしく」
握手をして、そして別れた。
ベーカー・ストリートの探偵たちの居間を出ると、僕は小さくため息をついた。緊張が緩むと、また奥歯がずきずきと痛み出した。
歩き出しても歯に響きそうな気がして、頬を手で押さえた。それで立ち去るのが遅れたのだけど、階段を降りかけたとき、なんだか喧嘩でもしているみたいな怒鳴り声が耳に飛び込んできて、びくりとして見上げた。
何を言っているのか、はっきりとは聞き取れなかったけど、ワトスン氏が一方的に捲くし立てているようだ。
ヴィーって名前が出てきている。そのひとのことで揉めているのだろうか。何だかよくわからない。
立ち聞きしているわけもいかないし、奥歯の痛みはますます酷くなり、泣き出しそうなくらいだった。
僕はのろのろと階段を降りて、辻馬車を拾った。メイスン社の事務所に書類を届けてから、ウィグモアに戻った。
そのときには、熱が出ているのが自分でもわかった。悪寒がして、足元がふらつき、立っていられない。
もういい加減、自分が間違っていたって認めていた。歯医者に行くべきだったのだ。今からでも診てもらおうと思った。
アルジーが紹介してくれるといった歯医者のことも、ちらりと頭によぎった。
だけど、今更、頼めっこない。
部屋で一休みしたかったけど、そうしたらもう起き上がれないような気がした。だからなんとか立ち上がり、部屋を出た。
階段をおりかけたところで、とんと誰かにぶつかり、抱きとめられた。
「バート?」
アルジーだった。
僕は顔をあげた。そしてはっとして、腫れている頬を手で隠したけど、もちろんもう遅い。
具合が悪いのはきっと一目でわかったと思う。アルジーは微かに眉をひそめた。
それみたことかと呆れられるか、もしくは厭味を言われるのを覚悟した。そうされても仕方がない。僕は結局アルジーの忠告を無視して、好意も無駄にしたのだから。
だがアルジーは何も言わず、僕を部屋に連れ戻して、ベッドに座らせた。そして、そっと僕の髪に触れて、安心させようとするみたいに微笑みかけた。それから、当たり前の口調で言った。
「馬車をとめるから、それから降りておいで」
「馬車?」
「こうなっては、きみだってもう、エルギン先生のもとに行くのに異存はないはずだよ」
それで僕の悪あがきはおしまいになった。
そのあとのことは、あまり思い出したくない。痛くない歯医者なんて、やっぱり存在しないと思うし、それに麻酔をかけられて、痛み止めの薬も飲まされて――細かいことは、あまりよく覚えていない。
下宿に戻るなり、ベッドに倒れこんで、ぐっすりと眠ってしまった。
次に、痛みで目が醒めるまでは、だけど。
<続く>
なんだか幸せな夢をみていたはずなのに、目覚めたときには、ずきずき歯が痛いのしかわからなかった。
そっと目を開けた。
外の気配からもう五時くらいだと思うけど、部屋のなかは暗い。だいたい霧のせいで、昼間だって灯りをつけてないとどうしようもない日が続いている。
少しの間、じっとしていたけど、痛みはおさまらない。
もう一度眠ってしまおうとも思ったけど、顔が腫れているような気がして気になった。あんまりひどい顔になっているとしたら、アルジーが起きる前に知っておきたい。いきなり、笑われたりするのはいやだ。
そっと腕を伸ばして、ベッドサイドの灯りを小さく灯した。
アルジーはまだ眠っている。
僕の方に顔を向けていて、その横顔は、半ば枕に沈んでいた。眠っているときのアルジーの、閉じた瞼のラインが綺麗だと思う。もちろん瞼だけではなくて、顔の輪郭はつくりものみたいにバランスがとれている。薄い唇は無防備な感じで、少しかわいいと思った。意地の悪いことも言わないし――
そんなふうにアルジーの寝顔を見つめていたのは、ほんの少しだけだ。ときどきアルジーは起きているのに、眠ったふりをしていることがあるから。
僕がため息をついたり、独り言を言ったりすると、そのときはしらんぷりしているのに、あとでからかったりするのだ。
僕はそっとベッドを抜け出した。
衣装箪笥の傍らの姿見を覗き込んでみる。
幽い光が鏡面にぼうっと広がっていた。口のなかまでは見えなかったけど、顔は右の頬がほんの少し腫れているようだ。
このまま腫れがひどくなったらどうしようかと不安になった。
だけど、抜くのは、絶対に厭だ。
虫歯じゃないんだから、生えたらなんとかなるんじゃないだろうか。
つまりあと少し我慢したらいいのだ。
――痛い、けど。
ため息をついた。
すると声がした。
「三時に歯医者を予約してある」
びくりとして振り返ると、アルジーがベッドにうつぶせになって、枕をかかえるような姿勢でこちらを見ていた。
「歯医者って?」
聞き返しながら、厭な予感がした。昨夜、食事をしていたとき、アルジー宛てにメッセンジャーが手紙を運んできたのを思い出した。
「あれ……ひょっして――」
「そう。昨日、きみの目を盗んで、歯科医のエルギン先生に連絡をしたんだ。それで早速返事をくれたんだよ。彼のことは信頼してもいい。評判の良い医者だし……」
「昨日、何も言わなかったじゃないか」
「昨夜言ったら、きみは一晩中、歯医者に怯えて過ごさなくてはならなかっただろう」
「怯えたりなんかしないよ」
尖った声で言い返したけど、アルジーは本気にしてはくれない。困ったような、面白がってるような顔をする。まるで駄々をこねている子供をなだめようとしているみたいに。
「大丈夫だよ、バート。抜くとしたって、ちゃんと麻酔を――」
「麻酔がきれたら痛い」
言ってから後悔した。子供っぽい台詞で、また馬鹿にされてからかわれるって警戒した。
アルジーは微苦笑を浮かべた。
「それはそうだけどね。そのままでいたって、痛いのにはかわりはないんじゃないかい? 口が開かなくなってからだと治療も大変だよ」
「口が開かなく……?」
「そう。私の友人のラリーは、そうなってから歯医者に行ったんだが、何しろちゃんと口が開かなくて、歯医者も手探りで悪い歯を捜さなくてはならない。間違った歯を抜かれてしまって大変だったよ」
そんな恐ろしい話を、アルジーは平気な顔でする。
「それって、つまり、別の歯を抜かれたってこと?」
「そう」
「じゃあ、結局は二本抜いた?」
「そういうことだね」
考えただけで気分が悪くなった。歯も痛いし――
「バート」
アルジーは、毛布と上掛をもちあげた。
「とりあえず、ベッドに戻っておいで。そんなところでぼうっとしていると、風邪をひくよ」
確かに寒かった。
暖炉に火をくべて、それからベッドに戻った。アルジーの腕に抱き込まれて、肩口に顔をうずめた。寒かったから、だ。
アルジーが言った。
「エルギン先生のところには、私も一緒に行くつもりだよ」
「僕は――」
僕は行かないって言おうとしたけど、やめた。
きっと第二のラリーの話をされるに決まっている。それに、いつだって僕は結局はアルジーの言うがままになるのだ。口では勝てないし、それに、歯医者に行く方が正しいっていうのもわかってはいる。
わかってはいるけど、厭なのだ。
ふいに腹が立って、僕はアルジーから体を離して、背中を向けた。
くすり、と小さく笑う声がした。
むっとして、きつく唇を引き結んだら、奥歯がまだ痛み始めた。
こんなふうだから、朝食もろくに食べることができなかった。歯医者に行くのだと思うと気が重くて、食欲もうせてしまった。
アルジーが席を外した隙に、マントルピースの上に飾ってある、小さな鏡を手にとって、こっそり口を大きく開けてみた。大丈夫。まだちゃんと普通に開くと安心する。
そこに元気の良い声がした。
「おはようございます、ホーキンズさん。どうしたんです? 風邪ですか? 喉が腫れてる?」
「あ……」
僕は口をぱくぱくさせて、慌てて鏡をもとに戻した。
「お、おはよう」
やってきたのは、来月から探偵事務所で経理を担当してくれることになっているマクレガーだ。
マクレガーは、メイスン探偵事務所で働きながら夜学に通った努力家だ。年は僕より二つ上で、明るく快活な性格だが、僕のことは最初、嫌っていた。男娼なんて、汚らわしい稼業についていたのが気に入らなかったのだ。僕がジェムを騙して、利用しているのではないかとか、疑っていた。
それでも、一度うちとけてからは仲の良い友達になった。今回も探偵事務所を開設するにあたって、本来の仕事以外のところでもいろいろと助けてくれている。
普段はお互い呼び捨てにしているから、ホーキンズさん、なんて呼ばれるとくすぐったいし、妙な感じだ。それでもマクレガーは、仕事は仕事だから公私のけじめはつけなくては、という。
だが僕が歯痛のことを打ち明けると、途端、げらげらと笑い出した。
僕が睨むと、大笑いするのはやめたけど、にやにや笑って、からかうように言う。
「おまえ、歯医者と犬は大嫌いだったよな」
「犬はともかく、歯医者を好きな奴なんて、滅多にいないだろ」
「よしよし。ま、サー・アルジャーノンが紹介してくれる医者なら、きっと名医だろ。俺たちがかかるような医者とは違うって。痛くもないさ」
「痛いのは痛いよ」
「ちょっとみせてみろよ。ああ。右だな。少し腫れてるみたいだ。早く行った方がいいぜ」
「……だから今日、行くじゃないか」
ため息混じりに答えると、マクレガーはくっくと笑った。そしてまた事務員の口調に戻って、言う。
「グレイさんへ連絡しておきましょうか?」
「え?」
「ベーカー・ストリートのホームズさんのところに行く約束をしているはずですよ」
僕は慌ててスケジュール帖を捲った。
だが先にマクレガーが言う。
「アークライト家の殺人事件についての書類を、今日、受け取りに行くのでは?」
シャーロック・ホームズ氏は、ベーカー・ストリートに事務所をかまえる探偵だ。普通の私立探偵ではなくて、諮問探偵を名乗っている。つまり他の探偵社からの相談なんかも受け付けている。
メイスン社も度々ホームズ氏のところに難しい事件を持ち込んで、解決の糸口を見つけてもらっている。
物凄くきれる頭脳の持ち主らしく、英国のみならず欧州の王室の抱える難しいトラブルや、国際問題なんかにかかわる込み入った事件を担当して、成果をあげているということだ。
ただホームズというひとの評判は、良いだけではなくて、かなり気難しいとか、変わり者だとか、礼儀知らずだとか――敬遠するひとも多いし、なんだか謎めいた感じだ。
ホームズ氏のパートナーのワトスン氏が温厚で信頼のおける紳士で、天才型の探偵を何かと助けているのだと、ジェムは言っていた。
ここウィグモアとベーカー・ストリートは近いのだし、事務所を開く前に一度顔合わせをしておくのもいいかもしれないと、今日ジェムが行くついでに連れて行ってもらうことになっていたのだ。
「歯医者はまたにする」
「平気ですか? 歯」
「平気だよ」
痛いけど。
「でも無理しない方がいいですよ――いや、マジでさ。ちゃんと治療しとけよ」
「わかってる」
だけどジェムとの約束と歯医者の予約だったら、どちらを選ぶかなんて、決まっている。それにジェムとの約束の方が先なのだから、歯医者を断わる正当な理由になる。ずるではない。
あと急ぎではないが、頼まれていた調べ物があったのを思い出した。書き物机の引き出しを開けて、僕は必要なものを準備した。
そのとき、アルジーが部屋に戻ってきた。
「サー・アルジャーノン、おはようございます」
「おはよう」
アルジーは、マクレガーにはそっけなく挨拶を返し、僕が外出の支度をしているのを見て、眉をひそめた。
「バート?」
「仕事なんだ。ジェムに頼まれている――。だから歯医者は行けない」
早口に言って、アルジーに引き止められる前に扉を開けて、部屋を飛び出す。
マクレガーの声が、あとから追いかけてくる。
「ホーキンズさん、約束は三時ですよ」
「調べものがあるから――」
嘘ではない。
こんなに早くに出かける必要はないのだけど。
<続く>
オペラの時間よりもだいぶ早めに、アルジーはやってきた。それは珍しいことではなくて、彼はいつでも僕の身なりのことまで口を出さずにはいられない。だから僕が身支度をしている頃にやってくる。
上流階級の社交の場に着ていくような服は、僕にはとても買えない。まず資金的に無理だし、センスだって追いつかない。そもそもジャーミン・ストリートやサヴィル・ロウなんかの紳士服の店に、ひとりで入って行く勇気はない。入っていったって、きっと相手にされないだろう。
そんなわけで、僕とアルジーとの関係がスタートしてから最初の二ヶ月ほどは、アルジーは週に一度は僕を買い物に連れまわして、衣装箪笥の中身を増やしていった。劇場や音楽会に一緒に出かける際に、僕がみっともない格好をしていると、アルジーも恥をかくことになるからだろう。
でも、アルジーは僕の服をコーディネートするのを楽しんでいるようなところもある。
最初の頃、そんなこともひどく鬱陶しかったけど、今はもう慣れてしまった。だけど出かけるところも、仕事も、それに服も、何もかもアルジーの好みを押し付けられては、時々息がつまる。
本当は。
アルジーと出かけたくないのかもしれない。
そんなことを思って、ベッドのなかで身をちぢめた。
ずきり、と奥歯が痛んだ。
歯の痛みはどんどんひどくなっていくみたいだった。
「バート、具合が悪いのか」
「ちょっと頭が痛いんだ。……吐き気もする」
早く出かけて欲しいと願いながら、小さく答える。
「それはいけない――」
予定が狂ったことで気分を害して、機嫌を悪くするんじゃないかと思っていたのに、アルジーの声は心配そうに聞こえた。
「バート」
彼はベッドの端に腰かけて、そっと僕の髪に触れた。
「こっちを向いてごらん」
見上げてみると、アイスブルーの瞳には、意地悪くからかうような色はなくて、とても真面目で――つまり、やっぱり本当に心配しているみたいに見える。
彼は僕の額に手を当てて、小さく首をかしげた。
「熱はないようだね」
「寝てたら治るから」
僕は言った。
「オペラのチケット――無駄にするの、悪いとは思うんだけど――」
「そんなことはどうでもいい。具合の悪いときに、チケットのことなど心配するものじゃないよ」
そんなふうに言われると、なんだか自己嫌悪に陥る。だって今は本当に歯が痛いけど、そうでなくても仮病を使おうしていた。
どうせ歯が痛くなるなら、あんなことを考えつく前に痛くなれば良かったのにと思う。
そうでなければ、痛くならないで欲しかった。
ずきりとまた痛んだ。
恐る恐る舌で痛みのある歯に触れてみる。だけど特にかわりはないみたいな気がする。一晩寝て、それで治ってくれたりはしないだろうか。
だけど、なんだか頬まで腫れているような気がして、そっと手をあてた。
すると、アルジーが微かに眉を寄せた。
「バート。頭痛の他に具合の悪いのは?」
「ない」
歯が痛いことは、絶対に知られては駄目だ。
僕が何よりも嫌いなのは、歯医者だ。
子供の頃、右の奥歯がひどい虫歯になったことがあった。
近所には、きちんとした歯医者さんがあった。最新の設備を備えている歯医者で、所謂床屋医者じゃないのが自慢だったみたいだけど、ひとりで行くのは怖かった。
でも母さんは歯医者は血の匂いがして不潔だから行きたくないと言ったから、仕方なく、ひとりで出かけた。
虫歯はかなり進行していた。加えて乳歯だったから、歯医者はあっさりと抜くことに決めたのだ。僕は逃げ出したかったけど、どうしようもなかった。麻酔はかけてもらったけど、痛くて死にそう、というのをはじめて経験した。
痛みは夜になっても引かず、その上、血もなかなか止まらなかった。夜、ベッドを汚すと母さんに叱られると思ったから、タオルを頬に当てて、ずっと起きていた。どちらにしろ、痛みのせいで眠ったりすることはできなかったと思う。
あのときはそれだけでは済まなくて、やっと抜歯の痛みが引いたと思ったら、今度は熱を出してしまった。
母さんは看病してくれたけど、きちんと歯を磨かないからだとくどくどと注意され、父さんには虫歯ひとつのせいで熱まで出すなんてと呆れられて、最悪だった。
でもとにかく、あのときからずっと、何があっても、歯はしっかり磨くようにしていた。
だから――
「虫歯かな」
アルジーが言うのをきっと睨んだ。虫歯なんかのはずがない。
アルジーは僕の唇を指でなぞりながら、あやすような声で言う。
「みせてごらん」
「いいってば」
口を開いた途端、アルジーの指が入り込んできた。
最初っからそうするつもりだったみたいで、いつも僕をからかうときの、綺麗だけど意地悪い笑みを浮かべて覗き込む。
「もう少し口を開けて」
いやだって――
言おうとしたけど、アルジーの指が舌に触れた。舌を動かして押しのけようとしたけど、濡れた指に上顎をなぞられ、それからまた舌をくすぐられる。
体をねじって逃れようとしたけど、別の手で肩を押さえつけられてしまう。そして、アルジーは、幾らか厳しい口調で言う。
「バート。言うことを聞きなさい」
そんなふうな命令口調は、アルジーは滅多に使わない。びくりとして、見上げた。
アルジーは、微苦笑を浮かべた。
「バート」
今度は少しだけ優しく、宥めるみたいな声で名前を呼ばれた。
放っておいてくれる気はないみたいで、仕方なく、口を開けた。
ベッドサイドの灯りを大きくして、アルジーは僕の口のなかを覗き込み、奥歯の辺りに指でそっと触れた。
「親知らずが生えてきているみたいだね」
「親知らず?」
虫歯じゃなかったんだとほっとした。
なのにアルジーは言う。
「腫れているようだ。早めに抜いた方がいいかもしれない。腕のいい歯科医が知り合いにいるから、明日にでも予約をいれて――」
「いらない」
「バート」
「そんなに痛くないから」
歯医者になんか絶対に行くものかと、硬い決意を込めて、言う。
「大丈夫だから」
するとアルジーはそれ以上無理強いはせず、にこりと微笑んだ。
「では、オペラにも行けるのかな」
「行くよ」
反射的に答えてから、しまったと思ったけど、遅い。そもそも頭が痛いって理由で、オペラを断わったのも、そのあとで思い出した。
だけど、頭痛が仮病だというのもばれてしまっているようだった。もっともオペラに行くのを断わる口実ではなくて、歯医者に行くのが厭なせいだと、アルジーは思っているみたいだけど。
どちらにしろ、歯医者に行くらいなら、オペラの方がまだましだった。
アルジーの思う壺にはまってしまったみたいで悔しいけど、僕はのろのろと起き上がった。
奥歯はずっと痛いのではなくて、時々ずきずきと痛みだして、そうするとどんどん痛みが大きくなっていく。
だけど、我慢できないほどではない。
ひょっとしたら、痛みのお陰で居眠りはせずにすむかもしれない。
小さくため息をついた。
アルジーは衣装箪笥から、先週仕立てたばかりのスーツとそれに合うシャツをゆっくり選び出した。僕が着替えている間に、タイとカフスを決めてしまっていた。僕を人形みたいにじっとさせておいて、アルジーは瑪瑙カメオのカフスをとめ、タイを手際良く結び、慎重に形を整えた。
それからくるりと姿見の方に、僕を向き直らせる。
「よく似合っている」
アルジーは満足げに言って、僕の頬にキスした。そして少し口調変えて、からかうように囁いた。
「それにしもバート、きみは本当に、おかしなところで頑固だね」
うしろから、両腕ですっぽりと僕を抱きしめ、鏡のなかの僕の顔を見つめて、アルジーは微苦笑を浮かべている。
「半年経っても色々と発見があるのは、楽しいけど、今夜は出かけるのはやめにしよう」
「え?」
やめにしようって、アルジーも行かないってことだろうか。
「だけど、すごくいい舞台だから、見逃せないって言ってたじゃないか」
「そんなことを言ったかな」
「言った」
仮病を使おうとしたのが、段々心苦しくなってきてもいたし、僕はオペラを見に行くつもりになっていた。
「アルジー、僕は平気だから。折角着替えたんだし――」
「だけどきみは、そのスーツを着ていくわけにはいかないだろう」
「どうして?」
「あまりにも新しすぎる。外に着ていくには、もう少し着慣れたふうにしておかなくてはね」
「だけど……」
アルジーはベッドに腰かけて、「おいで」と僕の方に両腕を伸ばす。
「本当のことを言ってごらん。痛みはひどい?」
隣にかけた僕の顔を覗き込むようにして、アルジーは優しく尋ねた。
「――ときどき痛くなる」
「せめて、痛み止めを処方させようか」
「いい。薬はできるだけ飲まないんだ」
「本当に頑固だね」
「薬は――、だって痛み止めって、麻薬みたいなものじゃないか。一度飲んで、また前みたいに中毒になるのが怖い。もう絶対にあんなふうにならないって、ジェムと約束したんだ」
「ベッドにいるときは、グレイ氏の話はやめにしないかい」
やんわりさえぎって、アルジーはゆっくりと僕の体をベッドに押し倒す。
「それよりも、痛みから気をそらす方法を考えてみよう」
耳元で低く囁かれた。
答えようとしたけど、耳朶を甘噛みされ、ベストの下に潜り込んできた手に邪魔される。その手をはらいのけて、肩を押しのけるようにして、睨みつけた。でもアルジーはおよそ行儀の悪い言葉を囁き、僕のシャツのボタンを外そうとする。
「やめ――、服、皺になる――」
「少し着古した感じになって、丁度いいだろう」
そんなことを言う。
やっぱり僕には理解できない。アルジーやアルジーの階級のひとをお客になんかしたくないと思う。
わけのわからない約束ごとは多いし、意地が悪いし、昼間はとりすましているのに、ベッドではまるで違うふうになるし――
だけど。
この日、アルジーはあまり意地悪なことはしなくて、食事をしたときも、そのあと一緒に眠ったときも優しかった。
だから、その間だけ。
痛みは忘れてしまって――
もうこのまま、痛みはひどくならないんじゃないかとも思った。
<続く>
アルジーはいつだって強引で、我侭だ。
たとえば来月三月、僕は探偵事務所を開設することになっている。だけど僕の意思なんかほとんど無視されていて、まるで騙されたみたいに、いつのまにかそんなことになっていた。
慌ててジェムに相談したけど、アルジーは先手を打っていた。ジェムは事務所開設が僕のためになるっていう考えにすっかり傾いていて、応援すると励ましてはくれたけど、探偵事務所開設はとりやめにはならなかった。
それで、なんとかして、少しでもいいから、仕返ししたいと思ったんだ。嘘をつくのは嫌いだけど、なんでもかんでもアルジーの言いなりになるのはいい加減、うんざりだった。
だから。
苦手なオペラの誘いを断わるのに、仮病を使うことにした。
コベントガーデンのオペラに誘われていたのだ。
歌劇場には、アルジーに連れられて、もう何度か出かけている。
でも僕はオペラなんか興味はない――何度もそう言っているのに、アルジーは僕のためのチケットもとったと言って、勝手に予定を決めてしまう。その上、僕のために誘っているのだと付け加える。
つまり社交界に顔を出しておくことで、探偵の仕事をとるためのコネをつくっておけるというのだ。だけど僕は、アルジーやアルジーの友人たちみたいな階級のひとをお客になんかにしたくない。
だいたいオペラは、イタリア語がわからないから、何を言っているのか、歌っているのかちんぷんかんぷんだ。あらかじめアルジーからストーリーを聞いていたとしても、退屈で、たいてい途中で眠ってしまう。
それにお客たちも厭だ。舞台を見ていてくれたらいいのに、彼らは――アルジーもだけど、オペラグラスを客席に向けることがしばしばある。
当然、アルジーと僕のいる桟敷も見られている。すれ違いざま、居眠りしていたことや欠伸していたことで、さりげなく厭味を言われたりする。
とにかく僕は気後れするばかり。イタリア語どころか、英語だってわからなくなりそうだ。休憩時間、アルジーの知り合いや友人たちと一緒になると、僕は自分ではけっして発音できないクイーンズ・イングリッシュに置き去りにされる。
アルジーの知り合いたちは、僕なんかがアルジーと付き合い、「彼らの場所」に足を踏み入れているのが気に入らないのを隠そうとしない。
とにかく何一つ面白いことはないんだし、この日のオペラは、絶対に行くものかと決意した。
それでも何の理由もなくすっぽかすのは難しいような気がしたから、仮病を使うことにしたのだ。
アルジーが迎えにくる約束の時間までに、僕は部屋の灯りを小さくして、ベッドにもぐりこんで、言い訳の台詞を練習していた。
おなかが痛い――
だと食べ過ぎだとか、からかわれるかもしれない。
頭が痛い、の方がいいだろうか。
頭が痛い、にしよう。
頭が痛くて、食欲なくて気分が悪い
うん。食欲がないのは本当だし、
少し気分も悪い。
頭が痛い。
そして。
痛い。
歯が痛い
痛い――?
僕は奥歯のあたりにそっと手を当てた。
どうしよう。
本当に痛いかもしれない。
歯が――
痛い。
<続く>
「帝都・闇烏の事件簿」三巻の書き下ろし番外「猫は食わねど 密偵稼業」にて、頁数などの関係で削除した思い出話です。未公開シーン風にぶちっと始まり、ぶちっと終わります^^;
しかしそれにしても――。
軽く眉を寄せ、頼久は背中を掻いた。どうも前の日から体が痒い。着ているものを脱いでぱたぱたとふった。布団を引き剥がしてみると寝台の上で、ぴょーん、と黒いものが跳ねた。
「やっぱりな」と頼久は腕を伸ばして、ぼこぼこと山をつくった布団の上で飛び跳ねている肉球を捕まえた。両手で猫の体をわさわさとさすった。すぐに、しっぽの辺りでもぞもぞと動く小さな点たちを見つける。
蚤だ。
「だめだ。肉球、覚悟しろ」
暴れる猫をさっさと洗い、そのあとせっせと蚤を取ってやる。毛皮のなかの侵略者がいなくなったおかけで安らいだのか、それとも嫌いな風呂に入れられた際の頼久との格闘に疲れたのか、肉球は彼の膝の上でくてっと眠ってしまった。
その寝顔を見るうち、弟を思い出した。
あれは高久が五つの冬だった。高久が風邪を引いた。なかなか熱がさがらない。
珍しくもないことだが父はどこかに出かけたきり、母は働きに出ていた。
子供の世話は香枝に任されていた。彼女は子供好きだったから、高久もよく懐いていた。だがなにぶん甘すぎる。熱のさがらない高久が兄たちと遊びたがっても叱りもしないのだ。
遊び相手がいなければ諦めて寝るだろうと、その日曜日、頼久は友也を誘って遊びに出た。ところが心配性の友也は香枝の具合もよくないからと、途中でひとり家に帰ってしまった。
そして頼久が夕飯前に戻ると、やっぱり友也は高久の相手をしていた。あやとりだ。
弟は得意げに蝶々をつくり、ふりかえると、
「兄ちゃん、教えてやる」と偉そうに言う。
まだ熱がさがっていないのだから、おとなしく寝ていろと説教しかけると、わざとらしい咳払いが聞こえた。ふりかえると、友也が目配せしていた。
ここで「ありがとう」とにっこり笑って相手をしてやれば、高久の好感度があがるというのだろう。
頼久はふんとそっぽを向いた。
ご機嫌取りなどしてたまるか――と言いたいところだが、すでに幾度も試し済みだったのだ。しかもうまくいったことなどない。
と、ぬくぬくした手が指に触れて、高久のびっくりした声が耳に飛び込んできた。
「兄ちゃん、手、冷たい!」
「外から帰ってきたからだ。ついでにおまえが熱いんだ。熱があるだろ」
頼久は弟の額に手を当て、眉を寄せた。
「朝よりあがってるぞ。やっぱり、もう寝ろ」
「やだ! あやとり!」と、やんちゃ坊主はじたばたと暴れた。
「こら、暴れるな。治ってから、いくらでもできるだろ」
「今やる! だって友兄が――」
「友兄はいい。今は兄ちゃんの言うことを聞け」
むーっと膨れたほっぺは真っ赤だ。目だって熱のせいで潤んでいた。
頼久はぴしっと叱りつけた。
「兄ちゃんは高久に早くよくなってほしいから、だめだと言ってるんだぞ。我が儘言うな」
ふくれっ面のまま、高久は暴れるのをやめた。怒った顔のまま、ぼろぼろと泣き出した。何やら悔しいらしい。
「泣くな。男の子だろ」
そう言うとたいてい泣き止むのだが、口をきゅっとつむったまま、しゃくりあげていた。
しばらく添い寝してやっていると、ぐずぐず泣いているのが静かになった。
見ると、もう寝ていた。起こさないようにそっと布団を抜け出そうとしたが、寝顔を見ていると飽きない。面白い顔だなと、じっと眺める。ぷくぷくした頬をつまんでみたいと思ったが、泣かれるといやなのでやめにした。
その口もとが小さく動いた。
「たげるから」
むにゃむにゃと何か言っている。
「兄ちゃんに、おしえたげるんだ」
「はいはい。ありがとよ」
小声で答えたとき、襖がそっと開いた。
友也だ。気配りが第二の天性となっていた友は、握り飯をのせた盆を手にしていた。
ボクシングデーの翌日、バートは朝寝坊をした。
昼まで寝ていたとしても、どうということもないような気がするのだが、生真面目なバートにとっては寝坊は由々しき問題だ。
彼が昼近くまで眠っているのは、前の晩によく眠ることができなかった場合だが、そうした日、目を覚ましたバートの機嫌は最悪だ。まず時計を見て青ざめ、次に私が彼を起こさなかったことを詰り、その延長線上で、寝坊した責任が私にあると主張する。
つまり私が彼を眠らせなかったせいだというのだが、それは些か勝手な主張ではないだろうか。
バートが眠っていない間、私だって当然眠ってはいないわけだから。
だがバートの意見だと、私の場合、昼間に眠っていたりするので公平ではないらしい。
まあそれはともかく、勤勉なバート君もクリスマス・シーズンくらい、朝寝坊をしてもかまわないのではないか。
私は彼を起こさないようにそっとベッドを抜け出すと、ガウンをはおった。
たぶんバートが朝寝を嫌う理由のひとつには、私達の関係を大家のミセス・マリナーに知られたくないという気持ちもあるのだろう。彼女が起きる前に、私をベッドから追い出して、きちんとしておきたいのだ。
ミセス・マリナーが私とバートの、言うなれば非合法な関係を了承していることを、バートは知らない。私がわざわざ、ウィグモアのこの部屋をバートのために借りてやったのは、ミセス・マリナーが大家だからなのだが。
彼女と私は似たもの同士で巧くいっている良い例で、つまり彼女にも同性の恋人がいて、それを息子にはそれを知られたくはないのだ。
それに彼女はなかなか旨いコーヒーをいれてくれるし、私は彼女にチップを弾む。この良好で安定した関係が崩れるならば、もっと先に私とバートの関係が破綻しているにちがいない。
熱いコーヒーを盆にのせて寝室に戻ると、バートの寝顔を眺めながら時間を過ごした。
彼は仔犬のように眠っている。きゅっと目をつむり、とにかく一心に眠っている、という感じ。
バートといると、時折自分は幸せなような気分になる。幸せな、錯覚だ。
そしてミセス・マリナーのコーヒーは、この錯覚を本物めかしてくれる。
クリスマス・シーズンは、ずっとハウィックで過ごす予定にしていた。
もちろんクリスティナが私とともにクリスマスを過ごしたいと願っているとは思えなかったが、それでも私としては彼女と過ごすしかなかったのだ。
待降節の頃から、私はかなり憂鬱で不安定だった。クリスティナのためのプレゼントを選ぶことすら、正直苦痛だった。
何を選んだところで、彼女が微笑まないことを知っていた。
そして彼女は、予想通り、私には一度も微笑みを見せてくれることなく、クリスマスの朝に、母方の親戚であるスタットン家の招待を受けて出かけてしまった。まだ体調も思わしくないのに、新年はそちらで過ごすつもりだという。
クリスティナは、私を惨めにする方法を良く知っている。彼女は私に似ているのかもしれない。巧みにひとを傷つける。まだクラリスを愛していると自覚していなかった頃、私もよくそういうひどいことをした。
もっとも私はクラリスよりもしたたかだから、置き去りにされたあと、二日ほどロンドンに戻ることにした。
深夜、この部屋に忍び込んで、眠っているバートをキスで起こした。半ば夢のなかのバートは私を見つめて、不思議そうに瞬いたが、厭な顔はしなかった。
抱きしめてもう一度、今度は額にキスをして、そのまま眠った。数日ぶりに良く眠れて、目覚めたときには安らかで、幸せの幻影に微笑みすらした。
十時頃、訪問者があったとき、さして歓迎すべき気持ちにはならなかったのだが、バートを起こしたくはなかったから、仕方なく応対に出た。
訪ねてきたのは、バートの密かな想い人ジェイムズ・グレイ氏の婚約者メリッサだった。
「まあ、サー・アルジャーノン! 驚きましたわ。ロンドンにはいらっしゃらないと聞いていましたもの」
黒髪を肩のラインで切りそろえたメリッサ・ライリーは、なかなか魅力的で愛らしいご婦人だが、社会的な活動を体験してしまった女性にありがちな欠点の持ち主で、つまり遠慮を悪徳のひとつに数えてしまっている。
バートはまだ眠っているので今は会えないと伝えると、具合が悪いのではないかと勝手に心配しだして、そのまま寝室にまで踏み入りそうな様子をみせた。
「だってバートがこんな時刻まで眠っているなんて。クリスマス・ディナーにも来てくれなかったし、心配していたの」
意外だった。
バートはなぜグレイ家のクリスマスの招待を断ったのだろう。私が不在の間は、最愛のジェム・グレイと過ごす良いチャンスのはずだ。たとえ彼が最愛の婚約者と寄り添うように笑いあっていたとしても、バートはそういう点では嫉妬したりしないらしい。なにしろ恋敵のメリッサにも、彼はとても懐いていて、屈託のない笑顔をみせる。
私にはけっして見せないような笑顔を。
それはともかくとして、私は少し心配になった。ひょっとしてバートは本当に具合が悪いのだろうか。
「私、看護婦の経験もありますから、様子をみるだけでも」
「大げさなことをすると、バートを困惑させますよ。もしも本当に具合が悪いようならば、私がちゃんとした医師を呼びます。心配はいりません」
メリッサはかちんときた様子で、眉をはねあげた。
もともと彼女は私のことを好きではない。
そして私と彼女は、きわめてバランスのとれた関係を保っている。つまり、私も彼女を好きではない。
ふたりしてこの世で二番目に魅力的に見える微笑、つまりは社交辞令的なそれをぶつけあって、彼女よりも数段社交的経験――即ち欺瞞的自己主張に長けた私が勝利をおさめた。
メリッサはバートに会えないのを心底がっかりしているようだった。
未来のグレイ夫人はバートを実の弟のように可愛がっている。これだけ勘の鋭い女性なのに、なぜバートが自分の婚約者に想いを寄せていることに気づかないのかは不思議だ。
「ピーターは、バートと仲良くなれると思ったのに……」
「ピーター?」
「ビーグルの仔犬なの。友人がおかしな詐欺にあって、仔犬を二十匹も押し付けられてしまったのよ。詐欺の方はジェムが担当しているけど、仔犬達を放ってはおけないでしょう? 私、世話をしてくれるひとに一匹ずつ預けているの」
少し興味を引かれたので、私は犬をみせてくれるように頼んだ。
メリッサは馬車に戻ると、籠のなかから生後三ヶ月ほどの小さな生き物を抱きあげた。
「ピーターよ。かわいらしいでしょう?」
ピーターは自分のことが話題になっていると分かったのか、ぱたぱたと尻尾を振った。茶色の瞳は明るく、愛嬌のある顔をしている。仔犬独特の甘ったるい匂いがした。抱いてみると殆ど重さがなくて、柔らかだ。自然と微笑んでしまう。暖かな幸せが心地良い。
仔犬はミルトン邸で引き取っても良いと告げると、メリッサはぱっと顔を輝かせた。とてもわかりやすい女性ではある。
バートには、彼女の来訪を告げておくと言って、私は礼を失することなく、彼女が馬車に乗り込み、いってしまうのを見送った。
さてピーターだが、この小さな生き物はきっと誰からも愛されるにちがいないと私は疑わなかった。ミルトン邸の執事は確か犬が好きだったし、バートも気に入ったならば遊びにくればいいのだ。
バートはミルトン邸をあまり好きではないらしいが、ピーターはそれを改善してくれるかもしれない。
バートと私は週に二度ほど逢瀬の機会をもつ。食事をともにして、そのあとはたいていウィグモアの彼の部屋で過ごす。別に悪くはないのだが、ベッドの問題がある。いつかこの点はバートとよく論じ合いたいのだが、以前切り出し方を間違えたので、当分は先送りになりそうだ。
つまり、ウィグモアのベッドもけっして粗悪なものではない。バートの以前の下宿のに比べたら格段に良いものをいれさせたのだが、それでも――と私はミルトン邸のベッドの長所、寝心地の良さに加えて、ゆったりとしたベッドの提示する可能性について語ったのだが、結果、バートは真っ赤になり、瞬く間に機嫌を損ねてしまったのだ。ピューリタニズム的道徳観の鉄則は、「実際に行っていることであっても言葉にはするな」、なのかもしれない。
まあ、それはともかくとして、私は彼の寝室に戻ると、ビーグルの仔犬をベッドの上におろした。
ピーターは、とことこと小さな足でシーツを踏みつけて歩き、バートの顔にくんくんと鼻を寄せると、ぺろりと頬を舐めた。
バートは目を覚まさない。
仔犬はぐいぐいと湿った鼻で、バートの頬を押したり、ぺろぺろと口元を舐めたりする。
「や……」とバートは小さく声をあげた。顔をそむけているつもりなのか、いやいやするように首を振った。
「もういいかげんにしろってば、アルジー……」
私は軽く拳をにぎり口元にあてた。笑いを堪え、バートの寝言の続きを聞こうと耳をすました。
だがバートはぱちり、と目を開けてしまった。
ピーターと目が合う。
と、バートはうわわっと頓狂な声をあげて、手足をばたつかせたかと思うとベッドから転げ落ちてしまった。
仔犬は驚いたふうもなく、遊んでもらっていると勘違いした様子で、大はしゃぎで小さな尻尾をちぎれんばかりに振って、すとんとバートの上にとびおりた。というよりもやはり、シーツから滑り落ちたという方が正しいだろう。
私はベッドに腹ばいになって、バートと仔犬を見下ろした。
「バート。私はそんなふうにきみの顔を舐めまわしたことはないけどね」
寝言のことなど覚えていないバートは、何のことかわからない様子で、いやそれよりも、私の言葉を聞いていなかったようだ。
仔犬の熱烈な愛情表現から逃れようと必死になっている。両手を床について、うしろに下がろうとしているのだが、仔犬はバートの上にのっているのだから、はっきり言って無駄な抵抗だ。
泣き出しそうな顔をして、バートは大きく首を振る。
「や……」
「そんなふうに怯えた顔をするもんじゃないよ。嗜虐趣味のある悪い男にさらわれて、いけないことをされたらどうする気だ?」
すっかりいけないことをしたい気分になっていたが、今実行に移すとあとが厄介な気がしたので差し控えた。バートはけっこう頑固なところがあり、本気で機嫌を損ねると、なかなか手ごわい。
バートは私の方を見上げて、悲痛な声をあげた。
「やだ……アルジー!! わ、わっ。とって……これ……やだっ」
いまや、本当に目に涙を浮かべてていた。
「嫌いなんだ。犬」
冗談ではなく、本気で苦手の様子だった。仔犬を抱き上げてやると、やっと小さく息をついた。涙をぬぐいながら、小さく尋ねる。
「アルジーの犬?」
「いや、ミス・ライリーからだ。暫くの間、預かって欲しいと言っていた。きみが犬を嫌いだと知らなかったのかな」
バートは少しばかり情けない顔をして、諦めたふうにため息をついた。
「メリッサ……忘れているんだと思う……たぶん明日か明後日くらいには思い出すと思うけど……彼女、ちょっとあわてんぼうなところがあるんだ」
否定すべき点はない。確かに彼女は有能で勘が鋭い。自分や自分の愛する者への敵意は、直感的に嗅ぎわける。美しい黒の瞳に刃を隠して、微笑む術も知っている。それでも確かに「あわてんぼうなところ」はあるのだ。
だがメリッサのことなど、どうでもいい。私は機会を逃さず、提案した。
「仔犬はミルトン邸で引き取ってもいい。これからきみも一緒においで」
「ミルトン邸に?」
バートはピーターの問題にけりがつくことにほっとする一方で、不満顔で聞きかえす。
「だけどなんで僕が一緒に?」
私はピーターを彼の鼻先に突き出した。
バートは、わわっと情けない声をあげて仰け反る。
「バート、この仔犬はきみのもとに届けられたのだから、当然責任はきみのもとにある」
「勝手に受け取ってしまったのは、アルジーじゃないか」
「寝坊したのはきみだよ」
「それだって、アルジーがあんな時間に起こすからじゃないか」
「起こしたかもしれないが、眠らせないようなことはしていないよ」
「それでも! いつも勝手なんだ。昨夜はひとのことは起こしておいて、そのまま僕を枕にして寝ちゃったじゃないか。僕はあのあと、眠れなかったんだ」
「そうだったのか。どうせ眠れないのだったら、もっと有意義に過ごせば良かったってことだね。いつもみたいに」
「いつもみたいなのも、別にいらない」
子供のような膨れっ面をして、上目遣いにこちらを睨む。『いつも』の記憶が明瞭になってきたのか目元がほんのりと朱にそまったが、それでも私に対する非難の気持ちはかわらなかったようだ。いやますます強くなったのか、口調が幾分きつくにる。
「とにかくあんたは勝手すぎる」
この告発を放った唇にはキスを返し、私はにこりと微笑みかけて、彼が次になすべきことを悟らせた。
「とにかく支度をしたまえ」
バートはしぶしぶとだが動き出す。少しばかり頑固なところは彼の魅力で、結局のところ素直なのは彼の長所なのだ。
そして。
私達はミルトン邸に向かった。昨日のうちに連絡して支度させておいたクリスマス・ディナーは、バートをおおいに満足させた。
ターキーやプディングといった、聖誕祭を思い出させるディナーを見て、バートはわくわくした様子で、少し照れたふうな笑顔を見せた。私がくすりと笑うと、慌てて幼い表情を隠して取り澄ましてしまったが、食べ始めたバートは、まるきり子供の顔をしていた。
私の方は、食事よりもワインを楽しみながら、バートに尋ねた。
「クリスマス、グレイ氏のもとには行かなかったのかい」
「行くつもりだったけど……」
バートは顔を曇らせた。目を逸らして、言葉を曖昧に濁らせる。
何でもないふりをしているが、やはりグレイの結婚は、バートにとっては苦痛なのかもしれない。
書きかけてとまっているショートストーリーのなかから抜粋。いずれ仕上げたいです。
アルジー&バート:リベ三巻の翌年くらいのお話。アルジーはクリスティナが社交界デビューするので大忙しの日々。そしてバートは娼館に潜入しての探偵のお仕事中、怪我をしたハリー・アストウェルを助けた――のはいいけど、ハリーの悪ノリで首筋にキスマークをつけられてしまった――下宿に戻ると、アルジーが訪ねてきていて――。
↓
↓
抱き寄せてくれる腕が恋しくて、身をゆだねてしまいたいのに、見つかるのが怖くて、バートは両手でアルジーを押し返す。
「だめだってば!」
「では、今夜の予定は?」
「今夜?」
「私はここで過ごしたい。きみは?」
思いもしない申し出に、バートは驚きに目を見開いて顔をあげた。夏の社交シーズンが終わるまでは、アルジーとふたりきりで過ごす時間などないだろうと諦めていた。いっしょに過ごしたい。でも――。
「ごめん。今夜はだめなんだ」
「なぜ?」
「なぜって……」
ともに過ごせば、肌を重ねることになるだろう。ハリーが戯れにつけた痕に気づかれてしまう。事情を話せば済むことだが、万が一にも誤解されたくはない。場所も悪い。娼館だ。仕事で出入りすること自体、アルジーは快く思っていないのだ。
誤解ばかりか、そんな場所に出入りするなとか、そんな仕事は辞めるべきだとか、アルジーはいつもの小言を並べ立てるにきまっている。心配してくれるのは嬉しいが、受け入れられない要求ばかりでは、折角のふたりの時間が台無しになってしまうのは間違いない。そしてアルジーは機嫌を損ねて帰っていくだろう。
そうしたら。
仲違いしたまま、会えない時間を我慢しなくてはならない。
そんなふうな時間は、きっと耐えられない。
バートは目を伏せた。
やはり、今夜はだめだ。
「今、すごく大事な仕事が入っていて――」
苦しい言い訳が途切れたのは、アルジーがくすりと笑ったせいだ。はっとして見あげると、綺麗な顔に浮かぶのは、気に入らないことがあったときの微笑み――。
「嘘をつくのが下手だね。隠しておきたいのは、どんなことだい?」
優しい声を、どうしてこんなにもひんやり響かせることができるんだろうか。
そんなことを思って答えを口にできないでいる間に、寛容という言葉からほど遠い恋人はすっと彼から離れてしまった。
「話したくないならかまわない。私と過ごしたくないのならば、それも」
「ちが――」
呼び止めようとしたときには、アルジーはもうきびすを返していた。
ばたんと閉ざされた扉を、バートは呆然として見つめる。ちがうのに、とつぶやき、小さく首を横にふって目を伏せた。
「勝手だ。ずっと、アルジーが忙しい間、僕は我慢していたのに――」
――愛はおまえに優しいか?
娼館で会った男が耳元で囁いた声が脳裏に甦る。
勝手で、そして意地悪だと、バートは心のなかで答えを返す。
けれど喪ったら、きっと生きてはいけない。
アルジー。
心の底で名を呼ぶだけで、切ない気持ちに胸が締めつけられる。
「ちゃんと説明しないと」
バートは自分自身に言い聞かせるように呟いた。
何も悪いことはしていないのだ。それなのに隠し事をしようとしたからいけないのだ。
もっとアルジーを信じなければいけない。そしてもっと信じてほしい。それには怖がっていてはだめだ。
自分自身を勇気づけるために理由を並べたてたが、本当のところ、バートの気持ちを一番強く揺さぶっていたのは、もっと単純な願いだった。
愛するひとと、少しでも多くいっしょに過ごしたいという願い。せっかく自分のために時間をつくってくれたアルジーを、他の誰にも渡したくはないという仄かな独占欲とともに――。
『背中合わせのくちづけ1』より。。書き下ろし短編「knock knock」エピローグのちょこっと前のエピソード
~優しい休息~
その夜、ローラの夫も加わり、ホテルのレストランで食事をとった。
ショーンは緊張しきっていたが、マギーが会話の主導権を勝ち取ると、話題はアロンの子供時代の話になった。おしゃべりな家族が我も我もと語りだして、アロンは迷惑顔だったが、ショーンは夢中になって耳を傾けた。おかげですっかり打ち解けて――、小さなサラはまだぷんぷんと怒っていたが、食事の途中でおねむになって母親と先に部屋に戻ったので、あとははじめて体験する賑やかで楽しい時間となった。
皆と別れたあと、ふたりはアロンの部屋に戻った。ショーンはすっかりマギーのファンになっていて、アロンに彼女の話をしてくれとせがんだ。姉さんになってくれたひとの好きなものや、仕事や、住んでいるところが知りたかった。
「マギーはいつハリウッドに行くんだろう」
「さあな」
そっけなく答え、アロンはベッドにごろんと横になる。ネクタイを緩め、緊張をとくように大きく伸びをした。
ショーンはベッドに腰かけ、そんな恋人の顔をじっと見つめた。
「アロン? どうして怒ってるんだ?」
「マギーの名は、今夜はもう口に出すな」
ぼそりと返された答えに、ショーンはびっくりする。
「なぜ、だめなんだ? 家族の話をするのにも、何か規則があるのか?」
「規則なんかないし、家族も関係していない」
ため息混じりに言って、アロンはゆっくりとからだを起こした。
「おまえはわかってないな。自分のこと」
ショーンはわずかに顔をこわばらせた。
「俺、何か失敗したのか? ヘンなこと――」
「そうじゃなくて」
くしゃりと髪をかき回し、アロンはショーンから目を逸らして早口に言う。
「マギーも言ってたことだ。つまり、おまえは綺麗で魅力がある」
ショーンは目をぱちくりさせた。
「きっと大勢がおまえを好きになる。友達だって、大勢できるだろう」
「俺に友達ができる?」
「ああ」
本当だろうか。
どぎまぎして、ショーンは腕のなかのケチャップの手をきゅっと握った。
友達など欲しいとも思わなかった。今日、友達がいてくれたらと願ったが、そのときも期待はしていなかった。
けど昨日、アロンが恋人になった。今日はマギーという姉さんができたのだから、ひょっとすると明日にでも友達ができても不思議はないのかもしれない。アロンの世界はヘンな規則がいっぱいだが、それでもあたたかくて優しくて大好きだと思う。
だがアロンの顔から微笑みが消えているのに気づいて、小さく首をかしげた。
「アロンはいやなのか? 友達ができること」
「そうじゃない」
「じゃあ、マ――」
今夜はもうその名前を言ってはだめだと思い出して、ショーンは途中で口をつぐむ。
アロンは微苦笑を浮かべ、腕を伸ばしてケチャップの頭を撫でる。優しい手つきでゆっくりと、その手はうさぎを抱くショーンの指に触れた。
「マギーも魅力的だろ。皆に愛されている」
「うん。俺も好き」
アロンの手に指を包み込まれて、ショーンはにこと笑う。その顔をほんの少し眩しげに見て、アロンは言う。
「マギーだけでなく、きっと大勢を、おまえは好きになる。そして」
うつむき、小さく沈黙したあと、訥々と言葉がつづく。
「きっと大勢がおまえを好きになる。友達として、だけでなくて恋する奴だって。おまえは経験がないみたいだが、女の子はおまえを放っておかないだろう」
ショーンは小さく首をかしげ、アロンの瞳を覗き込む。そこに不安を見つけて、どきりとした。不安は嫌いだ。冷たくて惨めで、とても苦しい。大好きなひとがそんなものを抱えているなんていやだ。ケチャップを脇にのけて、ショーンはアロンにとりすがった。懸命に告げる。
「俺、友達がたくさんできても、アロンを好きだ。誰よりも愛してる。他の誰を好きになっても、その好きとアロンを好きな気持ちは比べ物にならない。この先も、ずっと」
他の未来など想像できないし、欲しくもなかった。
アロンはゆっくりとまたたいた。夢からさめたときのように。そしてわずかに目を見開いた。探していたものを突然見つけて驚いたときのように。小さく首を横にふり、ショーンを静かに見つめた。囁くように言う。
「そうだな。馬鹿なことを言った。俺も同じなのに、な」
同じ。アロンがショーンを好きで、誰よりも愛してるということ。
もっとちゃんと言ってほしいと思ったが、こちらを見つめるヘーゼルの瞳に溶けた愛しみの光にどぎまぎして、ショーンは頬を染めてまたたく。ゆっくりとベッドに押し倒され、ネクタイをほどかれた。肌が熱くなるのは、アロンの体温を感じとっているからだ。うっとりと心地よくて、からだの芯がとろけそうだ。
はじめてだった。アロンからこうしてくれるのは――。
喉にくちびるを感じて、小さく声をあげた。頭をわずかにずらしたとき、何かがぶつかった。
ケチャップだ。
黒い目がじっとこちらを見てる。不思議そうに、興味津々なふうに。
「アロン、ちょっと待って」
上体を起こし、灰かぶりのうさぎをつかむとナイトテーブルにおく。ランプと向き合った格好で、こちらに向くのは小さなしっぽ。
「アロンと俺だけの時間だからな。ケチャップでもだめだ」
しっぽに言って聞かせていると、後ろからすっぽりと抱きすくめられた。
「愛してる」
あたたかな声が、さっきちゃんと言ってほしいと思った言葉をくれた。
確かな言葉と温もりは、この一瞬を永遠の楽園に変える。
今も、そして未来の先までずっと。
end
館の図書室は、ギルフォードにとっては宝箱だった。伯爵家に代々仕える父の忠誠心には賛同しかねたが、珍しい書物を簡単に手にできることには感謝していた。
主である伯爵はギルフォードの才能に目をかけており、彼が名門のパブリックスクールに入学する際には援助してくれた上、いつでも好きなときに好きな書物を読んでもよいと許可を与えてくれたのだ。
さて夏休みに帰省していた彼は、この日も遅くまで図書室で過ごしたあと、屋敷の片隅の自室に戻った。使用人たちの部屋よりもほんの少しだけ上等──といっても、屋根裏や地下に位置してないだけのことだが。
その部屋の扉を開けたとき、そこに小さな子供の姿を見つけて目を丸くした。
さながら小天使のような、愛らしいその子の名はトマス。伯爵家の嫡男で、今年五歳になるはずだ。
「どうなさったんです? トマス様」
「ギルに会いに来たんだよ」
トマスは無邪気に答える。一人っ子のトマスは寂しがり屋の甘えん坊で、ギルフォードを年の離れた兄のように慕っている。それはいいのだが、はっきり言ってギルフォードは子供は好きではなかった。相手をするのは面倒以外の何ものでもない。
他の子供が相手であれば、さっさと部屋から追い出しているところだ。が、トマスを邪険に扱うわけにはいかない。なんと言っても主家のぼっちゃんだし、それに──
小さな手が、彼の指先をきゅっとつかむ。
水色の瞳が懸命に彼を見つめている。
この子にこんなふうに無条件に慕ってこられると、どうしたわけか甘やかしたくなってしまうのだ。
「そろそろお休みになる時間ですよ」
「でも、ギル。ベッドの部屋はこわいんだ」
「怖くなどありません」
「ベッドの下にはお化けがいる。ギルだって、ひとりだと食べられちゃうかもしれないよ」
「そんなものはいません。ここにも、トマス様のベッドの下にもね」
トマスはうつむく。だがギルフォードの手をにぎったまま、離そうとはしない。
その顔を覗き込もうとすると、小さな声が「いるもん」と言い返す。
やれやれ、とギルフォードはため息をついた。そういえば前に屋敷に泊まった友人のウォレスが、小さなトマスをからかっていた。
それを思い出したのか、それとも夢でもみたのだろうか。
仕方なく、ギルフォードは子供といっしょにベッドの下をのぞきこんだ。
「ほら。いないでしょう? トマス様のベッドも同じですよ」
「ギルと僕とがいっしょだから、お化けは逃げたんだよ」
「トマス様」
「ここで寝る。いい?」
「では私がトマス様の寝室で?」
「ちがうよ。そうじゃないよ」
子供はぶんぶんと大きく首を横にふった。つまり、ひとりで寝るのがいやだと駄々をこねているのだ。
「乳母を呼んで──」
「だめ!」
トマスは慌てて叫んだ。
「だって母さまと約束した。いい子にして、ナニーを困らせないって」
「では、今夜だけですよ」
うっかりそう答えてしまう。するとトマスは瞳をきらきら輝かせ、ほんとに? と声を弾ませた。ばら色の笑顔だ。
「ギルもいっしょに寝る?」
「他にベッドはありませんからね。さ、先に休んでください。温かくしてないと、風邪をひきますよ」
こくんとうなずき、トマスは素直にベッドに入る。
もうあくびをしている。
そしてギルフォードが寝巻きに着替えたときには、ぐっすりと眠り込んでいた。
ベッドの隅っこで丸くなっているのは、ギルフォードの眠る場所をあけているつもりだろうか。心遣いはありがたいが、このままではすぐにベッドから転げ落ちてしまうだろう。
「トマス様?」
呼んでみたが、かたくつむった瞼はぴくとも動かず、かすかに開いたくちびるから、すやすやと寝息がもれるばかり。
ギルフォードは子供をそっと抱き上げ、ベッドの真ん中に寝かせたが、ふと眉をあげた。
トマスとて眠ってしまえば、もう何も怖いものなどないはずだ。自分のベッドでも平気だろう。
夜中に目が覚めてしまったとしたら──。
まあ、それはそのときだ。
翌朝、ごねられたとしても、これくらいの子供を言いくるめるくらい、たいして難しくもない。一晩とはいえ、窮屈な思いをせずにすむ。
ギルフォードは子供を抱き上げて、子供部屋に運んだ。
ベッドにそっと横たえ、ふとんをかけて立ち去ろうとした。ところが──。
いつのまにか、トマスの手はギルフォードのシャツをしっかりとつかんでいる。
起きているのかと思ったが、しっかり目をつむっているし、寝たふりをしているようには見えない。
無意識の動作のようだ。
やれやれ。
ギルフォードはため息をつき、靴を脱ぐと、子供とよりそって横になった。
そうして休みの間、ずっとこのおちびさんに付きまとわれることになるのである。
end